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  • 執筆者の写真RYUZO NAKATA

RYUZO NAKATA HISTOIRE-1

1961年 放送局勤務の父とレースカギ編みのオーダー服を作っていた母との間の

次男として札幌に生まれた

小さい時から、おとなしい性格 人とつるむのが嫌い

3歳からSKIを始め、同時に絵を習い始めたが、毎回、なにかに入賞してしまう


幼稚園の時は、ワンピースとかを、着せられていた

小学校から中学校1年迄、毎朝、マミー(母)が、頭のセットをしてくれて

今日はこれとこれを着て、と、東京の子供達のような?半ズボンスーツや

ツイードのハーフコート&ベレー帽などを着せられていた

友達たちは、黒いアノラック+デニム

自分は、真っ白でファーが付いたダウン+パンツ

デニムは、汚らしいと言って、買ってくれなかった

これは、嫌だったな


二人目の子供は、女の子がほしかったらしく、着せ替え人形させられていた

時には、本当に、気にいらないものを着せられた時は、

行ってきまーす、と、言いながら、学校のグランド辺りに隠れて

行かなかったような日もある


マミーが、既製の服を着た事が無い為か

僕たち、兄弟、モンキーズやビートルズが着ていたシャツなどを着たい、と、言うと

オーダーして創ってくれた


中学2年頃から、遊び心が吹っ飛び、絵を辞めた

その頃から、既製の服を改良して学校で目立っていた

ストライプのデニムは、1週間後には、学校中、みんな履いていた

そして、デザイナーになると公言する気の強い悪ガキに


高校なんか行きたくない、早く、ファッションの勉強をしたい、と、親に言うと

マスコミ屋の親父が、高校だけは、行け、と

仕方なく行くが、家を飛び出して、寮に入り、親の目を気にしない自由な高校生活を

満喫していた

3年生になっても、全く大学に行こうとも思っていなかったので受験勉強はしない、

ひたすらデザイン画なるものを描いて、イメージを膨らませて楽しんでいた

遂に卒業、当然、東京の服飾の学校に行くぞと思っていたら

また、マスコミ屋の親父が、そんなのは女の仕事、食って行けないだろう、と

一瞬、考えて、ヘアーデザイナー(美容師)なら、国家試験もあるし、と、親父を説得

試験を受けに、東京に

その日、朝から、山野愛子美容学校の試験に

その午後、納得できず、単独で服飾の学校を探し、直接、面接しに行き

学校の手続きと許可を貰い、札幌に戻り、親父に伝えると、もう、反対もせづ

入学金を払ってくれた




親父

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