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  • 執筆者の写真RYUZO NAKATA

RYUZO NAKATA HISTOIRE-4

パリ到着 翌日

朝から RUE DE BERRYを 歩いてシャンゼリゼ に

前日は わからなかったけど 徒歩 4分

テラスでキャフェオレを飲み

アリアンセ フランセ-ズ(語学学校)の 申し込みに


一旦 家に帰ると アントニオが ついて来いと

彼は OLIVIER(デザイナー)と 待ち合わせ

16区の銀行に行き 会社を 設立した と

場所は GALERIE VIVENNE

案内されると 一階が イギリス人の生地屋(オ-ナ-)

二階が アトリエ

(数年前迄 ゴルチェの SHOPだった)


オリビエが デザイナー

アントニオが パタンナー

他に ファソニエ(縫う人)セッティン



セッティン


この日から 僕も 見習いとして通うことになった


自分は フランス語が話せないし

朝は学校 お昼から アトリエに行き

絵を描き→パターンをひき→一階で 生地を選び→縫製



創ったものを 直接 アントニオとオリビエに見せる

話せないし これしかない


自作の メンズ

会社の下 ギャラリービビエンヌで


パターンの修正は アントニオがしてくれる

ハンドで 綺麗なラインを引くのを見て そのラインを

頭に打ち込む

アトリエで アントニオと

彼は、イタリアの"カムス"と言うテエィラ-に居た

イギリスのサビルロ-のイタリア版だ

元 テェイラ- パターンも バンドだ


夜は マンマのパスタを食べた後

オ-ダ-のス-ツを 縫っていたな

テレビを見ながら(見なくても 縫える)

オ-ルハンドで 三日間で 縫ってた

凄い


毎日が、こんな感じ

毎朝 シャンゼリゼで CAFE

毎晩 マンマのパスタを食べて

生地は 使い放題 楽しかったな

マンマ


娘のカ-ラ


学校に行く時は ウォークマン

この当時 パリで ウォークマンをしてたのは

僕だけ

フランス人も それは何、と聞いて来た

それも 当時の 一番 小さいSONYを

日本から持ってきていた

学校の皆んなが それは なんだ?と 寄って来て

友達も つくりやすかった

まぁ 皆んな 外人だけど

(フランス人は 語学学校に来ないよね)

そのうち この学校に居ても

フランス語 話せるようにならないねー みたいな話が

で 僕は VICHYと言う街にある

そう 湧き水の"VICHY"だ

クレルモンフェラン大学の付属語学学校をみつけ

2ヶ月間フランス人家族に入った

これまた 偶然で 家族の親父さんは 学校の運転手

毎日 送り迎えも してくれた

日本からの 学生さん達が来ると

親父さんと 一緒に 迎えにも 行っていた

すぐさま 皆んなと 友達に

週末は 友達を呼んで 食事も作ってくれた

バ-べQ

みんな 大感激だ


他の家族に 入った人達は皆んな ご飯が 美味しくない

少ししかない と ぼやいていたけど

僕は、またまた 楽しい毎日

(学校の運転手は 昨年かららしく その前は

BISTROTを やっていたそうで 家は フル装備で

ハム類が 沢山ぶら下がっているし キャフェマシ-ンも あった)

この街 なかなか良い

学校が終わると 毎日 プライベートのプ-ルに通い

夜は 家で フルコ-スを食し

週末は、車を持っている友達とNICEに行ったり

楽しすぎ 素敵過ぎだった

なんというか 別世界だった

初の NICEで


これ以来 何十回と 通うことになる


なんだか アッという間の 二ヶ月間だった

勉強も そんなにしなかったけど

さて パリに戻るか


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